備忘録

思考のストレージ

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ずいぶん久しく記事を書く。

基本自己の思考をアーカイブすることを目的としているため、

特に気にせずマイペースに更新できたらと思う。

 

様々な事を再考する状況になかなか身を置くことができず、

思考が収束していないことも原因である。

 

最近気になっていることについて備忘録的に箇条書きとして今回を終えたい。

 

・外殻と内殻

・建築家像

・工業的思考

・連続体

・フィードバックによるアーカイブ

 

 

陰り

先日某番組を見ていたときのこと。

 

「締め切りはある種自分の身を守るためのもの」

というようなことが伝えられていた。

一瞬、はて?と思った。

 

学生時代から締め切りに追われる日々だったような気がする。

ーレポート

ー設計課題

ー試験・卒業研究

etc...

 

その都度夜な夜な作業を進め、

目の下に大きなクマ、酷い寝癖に無精髭で学校に住んでいた。

ある種この締め切りという言葉にはいい印象は持っていない。

 

しかし、締め切りが自分の身を守るとは...

 

その方によると、

もし締め切りがなかった場合、より良いものを作れるはずだと、

際限なく繰り返し練っては壊しを繰り返してしまう。

そうならないために、期限を設けてそこへ向かってより良いものを生み出す。

 

なるほど。

設計だけではなく、何事にも共通することではあるが、

制約があれば人はすぐそれを言い訳にしたり、不満を漏らしたり...

かえって制約がなければ思考の拠り所がないだけではなく、

収束することなく、発散するばかりであろう。

 

最近思うこと。

世の中を見渡していると、皆それなりに仕事を受け日々過ごしている。

その中に身を置き、実際に体感したこと耳にしたことに衝撃を受けている。

 

今に始まったことでないが、よりその傾向が顕著であるように感じる。

それは、施主や施工業者への配慮の欠如である。

 

自分を頼って訪問してくれた施主に対し、

コミュニケーションを取ろうとしない態度をとったり、

施主と対面する際に身なりを整えなかったり、

SNSとまではいかないが、ブログにて一方的に施工業者を叩いたり。

中には公言することも控えるべきものまである。

 

諸先輩方のそんなやりとりを見ていると本当に嫌気が差す。

こうした環境の中で自分自身も愚痴や批判が多くなり嫌気が差している。

しかし、これにも負けず少しずつ時が来るまで耐え忍ぶ。

 

自分に期待していたあの頃の自分自身に。

そして、こんな私に期待をして応援してくれる全ての人たちのために。

 

 

とある危機感と絶望

危機感を感じざるを得ない出来事が多すぎる。

 

現場監理について、

監理者が現場へ行った際に施工不良を見つける。

現場が休工日において他仕上げや部材との複雑な取り合いをチェックし、

そのことについてネット上でこの施工は気に入らないと発信する。

 

こうしたことは日常的に、どこにでもある風景かもしれない。

しかし、決して工務店側も悪意を持って施工をしたわけではなく、

どうしたら綺麗に仕上げることができるか熟慮した上での決断だろう。

そのことについて、この納まりは気にくわないと、

一方的に責めるような表現はいただけない。

 

気をつけてほしいこと、こだわりのあることについては、

着手時の施工業者を集めた全体会議で周知すべきことであるし、

施工後ではなく、施工前又は施工時に立会うなどの行為は必然的に起きるべきである。

 

こうした行動が施工不良を防ぎ、争い回避につながるだろう。

また、設計者と監理者が同じ場合は特に必要行動だろう。

 

これはもはや施工不良というよりも監理不履行である。

 

以前、旭川デザインウィークの関連で開催されていた宮脇檀展にて、

模型やスケッチだけではなく、原図も展示がされていたことを思い出す。

図面の中に設計趣旨を記載したものがあったコトバ(記憶は朧げ)

 

ー図面の内容を十分理解した上で工事に着手することー

 

このことは設計者が設計趣旨(コンセプト)を明確にした上で、

施工者に対して、高い施工性を期待するものであろう。

 

この資料一枚によって

設計者は施工者へ設計趣旨(コンセプト)を明確に伝え、

施工者は設計内容を理解しようとする、お互いの信頼構築のための第一歩であろう。

 

身近な住宅工事の現場では設計図面を基にした施工図を使用し、

設計図書も実施設計図を描かない設計者も多く存在していることも事実であろう。

 

設計段階での省力化と合わせて、施工者とのコミュニケーション不足が、

以前より感じる危機感の一つである。

 

あくまで某事務所とするが、

そういった仲良しこよしで甘い仕事をしていると、

いつの日か自分に戻ってくることだろう。

 

こうした諸先輩を反面教師とすることで、

この素晴らしい業界に絶望することなく研鑽を積んでいきたい。

 

 

 

批評軸

先日、新建築住宅特集編集長 西牧厚子氏の講演を聴いた。

今回は建築家ではなく、建築雑誌という媒体を扱う方として、

実際に何が語られるのかとても関心があった。

 

以前石川初さんの本を読んだ際、

ランドスケープアーキテクトとしてプロジェクトに参加することは、

そのプロジェクトに新たな別の視点を持って参加できるとあった。

普段建築家ないし意匠設計の中だけではある程度の枠組みで収まるところ、

別視点での批評軸が設定されることはとても有意義であった。


日常的にボスの設計を形にする作業や

仲間内ないし知り合いの作品を見て感じる違和感は何なのか。

言葉にできないもどかしさがそこにあった。


今回の西牧氏の講演は、前半には氏の仕事について、

後半には北海道にゆかりある建築家の実作を用いたディスカッションとなっていた。

 

こうした構成において、前半部分は仕事風景だけではなく、

後半のディスカッションのための準備のような位置付けであった。

各建築家の設計作品についての感想は割愛するが、

共通して、今後につながるような、

何か建築を前進させるたもの要素がないと指摘されていた。

この話を聞いている時にふと普段耳にすることへの感想と近いように感じた。


社会人なりたての頃は単純に綺麗なもの、かっこいいものに惹かれていたが、

ここ数年でぱたっと魅力を感じにくくなってきているように感じる。

それは単純に建築を評価しているのではなく、

何かしらの批評性を持っているかどうかなのではないか。

批評性。何かしらの意図を持ってデザインされていない限り、

それはただの造形遊びであり、自己完結型の自己満ではないだろうか。

また中には例外的に、とある形から何かを見出し、

それらをまた造形しては何かを見出し...

というようにカタチからコトバを見出す場合もある。

しかし、何れにしてもそこにはコトバがあり、批評性をはらんでいる。


施主の要望をクリアすることだけを目的とせず、

建築や社会の問題点に対し批評性を持った建築を考えていけるか。

そこにこの仕事の職能があるように思う。


このことを胸に刻み、日々研鑽を積んでいきたい。

 

職責

先日建築士の定期講習を受講した。

内容は近年の法改正や建築士としての職責について、

機会を設けて学習しようというものである。

 

建築士を取り巻く環境の変化に大きく影響した事象として

構造計算書偽装問題がある。

現に毎年国交省の役人により、各行政や確認検査機関に抜打ち査察が行われ、

日々適正に確認業務が行われるような仕組みがある。

行政側だけではなく我々建築士においても同様に、

社会情勢によって法改正や国交省による通達が近年頻繁に行われている。

 

建築士の職責として、資質・知識・品位の維持向上が挙げられる。

建築のプロとして日々研鑽を積みなさいということである。

(このことは建築士法にて定められている義務である)


先述の定期講習を受講しているとよく出くわす。

ー何を言ってるのかさっぱりわからん

ー何でこんなめんどくさいことしなきゃならんのか

建築士の風上にもおけない諸先輩たち。

 

建築士の高齢化が騒がれているが

定期講習などの講習へ参加するとひしひしと感じる。

本当に実務を行なっているのか怪しい人もいる。

確かに一日がかりの講習であり、

以前はなかった制度であるからとくにそうおもうのだろう。

しかし社会情勢についていけず、日頃から情報収拾をせず過ごし、

資格の延命のみを目的としていると、職責を果たしていると言えるのだろうか。

 

こうした諸先輩の姿を見て新人は何を思うのだろうか。

どの業界やコミュニティーにも言えることだろうが、

身内のなかで油断しているのかもしれないが、

自身の言動によってどれほど自分の価値を下げているか。

目を覚ましたほうがいい。


きっとそういう類の人は努力することが嫌いなのだろうし、

こちらが何を言っても聞く耳を持たないだろう。

 

そういう人たちにはもう用はない。

 

つまらなくて 価値のあるもの

つまらなくて 価値のあるもの

 

Casa ブルータスを読んで。

建築家の内藤廣氏が設計した虎屋についての特集記事の中にあった一節。

 

日本人が誰かに手土産を手渡す際に使う言葉として、

「つまらないものですが...」というものがある。

周りにつまらないならよこさないでという人も少なくない。

いや、自分の身の回りでだけなのかもしれないが、少なからずそう言いたくなる人はいる。

しかし、つまらないものですがという表現は、

あなたを想う気持ちに比べたらつまらないものですが。

という意味合いがあるようである。

ロストテクノロジーや死語になりつつある、

日本人が古来から使っていた表現や気配りが感じられる特集であった。

 

変えていかなければいけないことがあることは紛れもない事実であるが、

その中でも変えてはいけないものも同時に存在していることは、

忘れてはいけないことであろう。

そうしたもの、ことを掘り下げて設計活動をしていくことは、

その対象に寄り添い、何が大切が見極められなければいけないだろう。

 

以前藤森照信氏の建築を見た隈研吾氏が、

「見たこともない建築だがどこか懐かしさを感じる」と表現した。

原初的という言葉を使うと、縄文時代的な情景が浮かぶかもしれないが、

人それぞれ、根底に眠る原風景が存在していて、

何か体験した時にふと、その原風景に近い要素を感じ取ると、

「新しいものなのだがどこか懐かしい」と居心地の良さを感じ取るのだろう。

 

奇をてらい、デザインの押し売りも、

視点を変えると間違ってはいないのかもしれないが、

人々の琴線に触れるような仕掛けを取り込めるかどうかが、

今後の建築設計に必要なのかもしれない。

 

バブル経済期ということもあったのか、

ポストモダン期には目を引くデザインが良しとされていたが、

その後、白の時代(SANAA等)が訪れ、

現在は素材表現の時代が来ているように感じる。

あまり変化がないようで、数年でニーズと我々の建築表現は変わっていっているため、

最近発表される建築を好き嫌いではなく、

どう世の中が変化しているかを見極める必要はある。

日本人の気遣いから、建築の流れについて偉そうにあれこれ書きなぐってしまったが、

建築表現は多種多様になっているものの、

設計におけるデザインコードは変わらないものであるはず。

 

形態表現はひとまず置いておいて、

自分の設計におけるデザインコードとして、以下を掲げる。

 

  ー原初的建築ー

 その人の心の根底に眠る風景を探り、

 新しいもののはずだが、どこか懐かしい居場所を探求する

 

ありきたりかもしれないが、やはり居心地のいい場所に人は集うものだと考えている。

そのために建築はあくまでからであり、

その内外で発生する人間活動の補助として存在する。そういう建築を考えていきたい。

そのため先述のコンセプトをメインに掲げ、

さらに再考を重ね、確固たるものとしていきたい。

 

ちょっとしたコラムと意思表明を兼ねて。

 

 

日常の解像度

観察の練習という本に出会った。

特に探していたのでなくたまたま出会った。

所謂ジャケ買いの一種であったと記憶している。

内容は簡潔に述べると、まず見開きでとある日常の風景が示される。

そしてページをめくるとその写真に対する著者による事象説明がある。

というものが繰り返される。

日常の中での解像度を上げ、

日頃見逃しているあらゆる事象を捉える訓練をすることができる。

 

妻と旅行ないし街中を歩いているときによくあることとして一例。

 

日頃から街中にある有名建築、

町並みを形成している建物群、

建物を特徴付けているディテール、

etc

 

そのような中でも妻はよく、

あの角にあった喫茶店が素敵だった。

さっきの焼き鳥屋さん美味しそうだった。

etc

 

同じ街の同じ道を歩いていても各々感じ取る情報が異なる。

それは日頃から張っているアンテナの違いがある。

私自身どちらかというと食にこだわりがない方なため、

日頃食に関する情報は感じ取り方が鈍いように思う。

 

しかし妻としては観光がメインであるため、

食や観光スポットに目が行ってしまうようだ。

 

これは我々の業界においても重要な視点のように思う。

以前触れた、プロであるからには好き嫌いの判別ではなく分析する義務がある。 

kthrk374483.hatenablog.com

 現場へ赴く場合、

責任感を持ちきちんと現場を見ようと思うと、

細かい部分に目が届き、誤った施工を正すことができるが、

お手伝い気分では全体の雰囲気を感じ取った時点で満足してしまうことが多いように感じる。

 

また仕事にかかわらず、日常的な人付き合いについても言えることである。

相手の些細な仕草から何かを感じ取ることも重要である。

 

これらのことは誰かに指摘され促されることで身につくものではなく、

自分自身が気づき、努力しなければならない。

何事にも結びつくことであるが、他力本願とせず、

自分を省み、気づき、少しずつ変えていこうとする気概は、

自分自身で身につけていかなければならない。

 

今年はより、この意識を定着させるため、

様々な他者に会い、多様な価値観に触れていく。

そのために有限な時間と労力を優先的に割いていこうと思う。